ロスに行って、昔のことを少し思い出したので書こうかなと思います。
この話は、自分の1冊目の著書
「運と実力の間」
にも書いてます。
自分がポーカーを初めたのは2007年。本格的にやるようになったのは2008年夏くらいから。今からするのは、2010年2月の話です。
この時は自分は大学に復学した後です。
復学したのは2008年の冬学期(10月から)でした。2年の冬学期の専門科目の単位を色々忘れ物していたので、冬学期からの復学をしたのです。
普通、大学は休学をカウントせずに8年間まで在籍出来る(4回留年出来る)のですが、東大はシステム的に、駒場(1,2年)を4年間、本郷(3,4年)を4年間で卒業しないといけないのです。駒場を3年で卒業してしまったので、自分のトータルの在籍可能年数は7年。
休学する前に既に本郷に2年通ったにも関わらず、単位をほんの少ししか取れてなかったので、事実上後がない状態でした。
で、東大は夏学期を終えて卒業ということがシステム的に出来ない+冬学期から復帰したので、2009年の冬学期をさらに半年休学することになっていたのです。
前置きが長くなってしまいました。で、その復学した後の休学期間中でした。
2月10日過ぎ、突然小倉くんから電話があって
「木原くん、ロスに行かない?」
言われた日にちは、電話をもらった3日後w
なかなか急な誘いですが、まあ行くことに。
一緒のホテルに泊まるも、部屋はシェアせずに別々。移動だけ半分くらいタクシーをシェア。
自分は5-10NLHEをメインに打ちます。
3週間くらいで、2万ドルくらい浮いていました。
その時は、トーナメントの存在は殆ど知らなかったですが、その時に小倉くんに
「木原くん、メインのサテに一緒に出ようよ」
と誘われます。なんでも、その次の日にある1万ドルメインイベントのサテライトがその日にあって、バイインは1100ドル。面白そうだったので参加(自分は実は結構こういうノリで色々参加するのが好きですw)。せっかくなので、10%ずつ持ち合うことに。
サテライトは自分だけ運良く通過。今の目線で考えるとぬるいプレーも多かったですが、その時はサテライトなんて初めて打ったし、まあしょうがなかったかな。
そしてメインイベント。
初日、セットが3回きて、なんと3回ともオールインになるという幸運。2万点スタートが10万点、全体5位でデイ2へ!
二日目は途中でKK<AAを食らうなど、7万点まで減ってデイ3。
デイ3の最後に入賞が決まります。
紆余曲折あったものの、14万点まで増えて残り73人。72人から入賞です。
正直、入賞までじっとしていようと思ってました。入賞の19000ドルは当時の自分にはあまりに大きいです。しかも、出したのは1100ドルなので、約束の10%を払っても十分すぎるくらいです。
そして、幸か不幸か(?)、ハンドフォーハンドの時に、ボタンでTTが来たのです!
ブラインドは1500-3000のアンティ500です。
そして、ビッグブラインドには参加率50%を超えていて、50万点くらい持ってるチップリーダーが。
その当時の平均的なオープンレイズサイズは7000点くらいでした。
しかし、その場でポットを取るだけで構わないというのと、強いハンドだとあえてバレても良いや、ということで、9000点にレイズ。
すると、そのチップリーダーが24000点に3ベット!
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分かっています。オールインするのが一番期待値が高いことは。
オールインすべきなことは分かっています。
当然オールインすべきです。大体降ろせます。分かってます。
今だったら、少しの迷いもなくオールイン出来ます。
3週間かけて稼いだ2万ドル。それに近いくらいの金額を、降りるだけで確保出来るのです。その当時、2万ドルを合わせても、自分の資産は5万ドルないくらいでした。そこに、19000ドルの90%が上乗せされるのです。
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フォールド・・・
降りました。
自分の人生で、ミスプレーは数えきれないくらいやってきてます。
しかし、自分のポーカー人生で、こうした方が絶対的に正しいと分かっていつつ、それを選ばなかった、選べなかったのはこのときが唯一です。
「運と実力の間」ではこのハンドを「人生最悪のプレー」という表現になってます。
そこまでひどいプレーには見えないかもしれません。
しかし、正しいと分かっていて、マネープレッシャーに押しつぶされて選べなかったプレーという意味では唯一じゃないかな。自分の人生で悔やまれるプレーのトップ3、ある意味一番かもです。
当然ですが、小倉くんにはすごく怒られました。まあそりゃあそうですよね、自分でもそう思いますw
そのハンドが終わった時、別のテーブルで飛びが出てデイ3終了。
デイ4では、KQs<99の後、ATs<99で飛びました。